久しい・・
2005年6月16日日記書くのまたしても久しぶり・・途切れ方も急でまた誰かに心配かけてたら頭を下げたいなあ・・・
何気にかなり元気でした。。よく遊び、音楽(吹奏楽部)でもスポーツ(球技大会関連)でもせかせか頑張ってました。
ただし、「よくサボる」この癖はどうも中学時代からなにも変わってないどころか、もっといけない事になってます。
入学から今までまともに宿題出した事ない・・・遅刻も5回させていただきました。普段いろんな意味で腰が低いので気付かれてない所もありますが、観点によっては髪染めたりピアスしたりしてる人達よりアウトローな学校生活かも。
つか校則破ってまで自分の身だしなみよくしようとする人は、自分をちゃんと大事にできている人だと思う。(周りに合わせたってだけのはちょっと別だけど)あの方々は宿題も人間関係も何障害なく乗り切れてる感じがある、ああいうのこそカリスマってやつかなぁ・・。ちょっとかっこいいわー。
そしてあの路線の方々に憧れて身近なその人たちに合わせてみたたくさんの人々、ってのが最近の高校生のイメージの外殻を成しているんじゃないか、特に女の子はまわりに合わせておきたい人が多いの比例して・・
・・・ん〜ちょっと考えすぎか。
今日は、なにやら朝六時といういつもなら起きる事のない時間に父さんがパソコンの用事で僕を起したので、父さんが出かけてから「あ、日記書く条件と時間が!」ということで久しぶりに書いています。
周りの人たちの日記を見て、一ヶ月とちょいの間にいろんな出来事が、この人にもこの人にも、あったんだなぁ・・と、日記を通してその過程を現実と同じペースで見ていられなかったことを、今になって図々しくも悔やんでいます。。
・・・が、最近あきらめたように分かってきた。僕の性格では・・・起動に10分かかるパソを立ち上げネットに繋ぐという、まぁ別にそう大した事じゃないんだけど、これだけの事が、音楽の事とか溜めまくった宿題の事とかに手をつける時間を作りにくくしてしまう、、ようするに要領がとてつもなく悪いんです。一晩に一つか二つの事をやったら後は寝る体制に入ってしまう、なんかそっから先にブレーキがかかる、なんかの障壁があるような。特に「やるべきこと」に対して。トラウマがあるかのように、実際トラウマとなるような事を体験した覚えもあるし、かといってトラウマと名付けるのは妥協であり遠回りでしかないような、でもなんかやろうとすると、むやむやしてしまう。目をぎゅっぎゅさせる強迫観念が出る癖がここ一年ぐらいあるんだけど、それに似ている気がするけど別にこういう自分を、なんかの病気持ちだと決め付けてまず自分から特別視して、治していこう、という気があるわけじゃなく、他人からも病気と思われたいわけでもないしまして他人を傷つけ見下げる視点からの相対的な自分の優越に手を伸ばしたいわけでもなく、なんというか日本人は肉体的に豊かだから、多分それで心のケアミスだけどんどん発展して複雑になって、相対的な観点から直感的に、自分で自分の思考や行動の変な所を見つけてしまっては、治していこうとする、遺伝子に組み込まれてる本能からなる人間的思考からはちょっと離れた人間的思考の仕組みを日本人や先進国の人間は持ちやすいように思う、最近始まったことではないにしても、最近多くなってきたんじゃないかなぁ・・。こう考えると今の時代に生きてる人も何かの変わり目の上の存在で苦労が多いだろう、けどみんなで頑張っていけたらすてき、できれば一人も取りこぼしたくない、けど、人は色んな原因で死んでしまうからなぁ・・存在したということをその魂と身近だった人が覚え続けることも大切だと思う、、どこまでが身近なのか・・そこの考え方次第で殺し合いの戦争も少なくなったりしないか。。
最近思ったことでちょっと書きたい事があります、普通の中の普通について・・トップとビリの完全な中間地点のこと。普通の人、っているけど、その人が果てし無く普通、普通の中の普通かどうかと思うとそうではない、普通ってどんなものなのかのとらえ方の個人差もあるけど、普通の中の普通とは数値とかの上でしか出ないと思う。で、その、普通とはどんなものなのかのとらえ方の個人差について踏まえると、人間とかの生きたもの一つ一つの総合的評価に普通というのは絶対有り得ないものだと思う。トップ中のトップやビリ中のビリ、中の上、下はあると思うんだけど。
まぁ何がいいたいかよく分からない感じなんですが、普通になろうとする事で僕はいろいろと悪循環的な悩みを持った事がしばしばあったんですが、どうも普通になろうとする事をやめれば肩の荷が、ひとつかふたつ下りるなぁと、思っているわけです。テストの順位とかは別だけど、生命体として普通なんてポジションは与えられない。ありもしない最高と最低の間に留まってさ迷うぐらいなら、最低になってしまったほうが悩まなくてすむ。悩みが少ない、軽い時なら、悩みが多い人に何かしてあげられる余裕もできるかもしれない、自分に価値ができるかもしれないんだ、自分の居場所が広がるかもしれないんだ、生きること、生きていることはそこからも始められると思う、共存とは自分の体があってこそ相手ができて成り立つ、だからみんな自分を大事にしてね、誰かのために、、というようなことをいいたかったのですが・・まぁ誰かに届け!
何気にかなり元気でした。。よく遊び、音楽(吹奏楽部)でもスポーツ(球技大会関連)でもせかせか頑張ってました。
ただし、「よくサボる」この癖はどうも中学時代からなにも変わってないどころか、もっといけない事になってます。
入学から今までまともに宿題出した事ない・・・遅刻も5回させていただきました。普段いろんな意味で腰が低いので気付かれてない所もありますが、観点によっては髪染めたりピアスしたりしてる人達よりアウトローな学校生活かも。
つか校則破ってまで自分の身だしなみよくしようとする人は、自分をちゃんと大事にできている人だと思う。(周りに合わせたってだけのはちょっと別だけど)あの方々は宿題も人間関係も何障害なく乗り切れてる感じがある、ああいうのこそカリスマってやつかなぁ・・。ちょっとかっこいいわー。
そしてあの路線の方々に憧れて身近なその人たちに合わせてみたたくさんの人々、ってのが最近の高校生のイメージの外殻を成しているんじゃないか、特に女の子はまわりに合わせておきたい人が多いの比例して・・
・・・ん〜ちょっと考えすぎか。
今日は、なにやら朝六時といういつもなら起きる事のない時間に父さんがパソコンの用事で僕を起したので、父さんが出かけてから「あ、日記書く条件と時間が!」ということで久しぶりに書いています。
周りの人たちの日記を見て、一ヶ月とちょいの間にいろんな出来事が、この人にもこの人にも、あったんだなぁ・・と、日記を通してその過程を現実と同じペースで見ていられなかったことを、今になって図々しくも悔やんでいます。。
・・・が、最近あきらめたように分かってきた。僕の性格では・・・起動に10分かかるパソを立ち上げネットに繋ぐという、まぁ別にそう大した事じゃないんだけど、これだけの事が、音楽の事とか溜めまくった宿題の事とかに手をつける時間を作りにくくしてしまう、、ようするに要領がとてつもなく悪いんです。一晩に一つか二つの事をやったら後は寝る体制に入ってしまう、なんかそっから先にブレーキがかかる、なんかの障壁があるような。特に「やるべきこと」に対して。トラウマがあるかのように、実際トラウマとなるような事を体験した覚えもあるし、かといってトラウマと名付けるのは妥協であり遠回りでしかないような、でもなんかやろうとすると、むやむやしてしまう。目をぎゅっぎゅさせる強迫観念が出る癖がここ一年ぐらいあるんだけど、それに似ている気がするけど別にこういう自分を、なんかの病気持ちだと決め付けてまず自分から特別視して、治していこう、という気があるわけじゃなく、他人からも病気と思われたいわけでもないしまして他人を傷つけ見下げる視点からの相対的な自分の優越に手を伸ばしたいわけでもなく、なんというか日本人は肉体的に豊かだから、多分それで心のケアミスだけどんどん発展して複雑になって、相対的な観点から直感的に、自分で自分の思考や行動の変な所を見つけてしまっては、治していこうとする、遺伝子に組み込まれてる本能からなる人間的思考からはちょっと離れた人間的思考の仕組みを日本人や先進国の人間は持ちやすいように思う、最近始まったことではないにしても、最近多くなってきたんじゃないかなぁ・・。こう考えると今の時代に生きてる人も何かの変わり目の上の存在で苦労が多いだろう、けどみんなで頑張っていけたらすてき、できれば一人も取りこぼしたくない、けど、人は色んな原因で死んでしまうからなぁ・・存在したということをその魂と身近だった人が覚え続けることも大切だと思う、、どこまでが身近なのか・・そこの考え方次第で殺し合いの戦争も少なくなったりしないか。。
最近思ったことでちょっと書きたい事があります、普通の中の普通について・・トップとビリの完全な中間地点のこと。普通の人、っているけど、その人が果てし無く普通、普通の中の普通かどうかと思うとそうではない、普通ってどんなものなのかのとらえ方の個人差もあるけど、普通の中の普通とは数値とかの上でしか出ないと思う。で、その、普通とはどんなものなのかのとらえ方の個人差について踏まえると、人間とかの生きたもの一つ一つの総合的評価に普通というのは絶対有り得ないものだと思う。トップ中のトップやビリ中のビリ、中の上、下はあると思うんだけど。
まぁ何がいいたいかよく分からない感じなんですが、普通になろうとする事で僕はいろいろと悪循環的な悩みを持った事がしばしばあったんですが、どうも普通になろうとする事をやめれば肩の荷が、ひとつかふたつ下りるなぁと、思っているわけです。テストの順位とかは別だけど、生命体として普通なんてポジションは与えられない。ありもしない最高と最低の間に留まってさ迷うぐらいなら、最低になってしまったほうが悩まなくてすむ。悩みが少ない、軽い時なら、悩みが多い人に何かしてあげられる余裕もできるかもしれない、自分に価値ができるかもしれないんだ、自分の居場所が広がるかもしれないんだ、生きること、生きていることはそこからも始められると思う、共存とは自分の体があってこそ相手ができて成り立つ、だからみんな自分を大事にしてね、誰かのために、、というようなことをいいたかったのですが・・まぁ誰かに届け!
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